ゴッホの生涯を分かりやすく解説!代表作の裏側にあった壮絶な人生とは
投稿日: 投稿者:MASAKO IKEDA
ゴッホは『ひまわり』や『星月夜』など数々の代表作を残した大人気の画家ですが、裏側には壮絶な人生がありました。
37年という短い人生だったゴッホの生涯を分かりやすくまとめます。
生前に売れた作品は1点だけだった!
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/フィンセント・ファン・ゴッホ
ゴッホは、19世紀後半に活動したオランダ生まれの画家ですが、画家として活動したのは、わずか10年のみでした。
短い活動期間でしたが、約850点もの油彩画を描いています。
ゴッホの絵が広まったのは亡くなってから数十年後で、なんと生前に売れた作品は、『赤い葡萄畑』だけだったのです。
全く有名ではなかったゴッホの作品が、なぜ広まったのかはこの後の文章を読んでみてください!
子供のころから問題児だった
ゴッホは1853年3月30日、オランダのズンデルトという小さな町で6人兄弟の長男として生まれました。
ゴッホは幼い頃から感情をコントロールができず、学校でも問題児扱いされていましたが、絵をたくさん描く子供でした。
11歳の頃に描いたといわれる『農場の家と納屋』という作品は、小学生が描いたとは思えない絵柄で、この頃から才能は開花し始めていたのかもしれません。
画家になるまでには職を転々としていた
画家になる27歳までの間、書店店員や画商、教師、牧師などさまざまな職を転々とします。
ゴッホは不器用な性格で、トラブルを起こすことが多く、仕事を始めても、長続きしなっかったそうです。
ゴッホの感性を磨き、画家としての才能を開花させたのは、叔父が経営していた『グーピル商会』という美術商の仕事で、多くの名画に触れたこと、そして独学でスケッチも描いていたことでした。
プロの画家になることを決意
1880年に兄の絵に可能性を感じていた、弟テオからの資金援助を受けながら、画家としての活動を始めました。
弟テオは、ゴッホも働いていた『グーピル商会』で、美術商の仕事をしていたので、目利きのセンスがあったのかもしれません!
ゴッホはオランダ・ハーグやヌエネン、ベルギーのアントワープ、フランスのパリやアルルなど、数々の拠点を移していました。
それぞれの場所で恩師と出会ったり、アトリエを構えたり、複数の芸術家たちと親交を持ちながら、少しずつプロの画家として歩みを進めていったのです。
作風の変化
ゴッホの作品は、『ひまわり』など、明るい色彩を使った作品を思い浮かぶ人が多いのではないでしょうか?
ゴッホは画家の初期時代は、『ハーグ派』という暗い表現技法を学んでいたため、ダークな色合いのシックな作品が多くあります。
代表作が『ジャガイモを食べる人々』という作品です。
パリに移ったゴッホは、クロード・モネやルノワールといった印象派の画家に影響を受け、明るい絵を描き始め、作風が変化していきます。
人生を変えたゴーギャンとの暮らし
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/黄色い家
ゴッホはフランス南部のマルセイユ近くにある町アルルに移り住み、『黄色い家』と呼ばれていたアトリエを作りました。
印象派の画家ゴーギャンの作品の魅力に惹かれていたゴッホは、一緒に制作活動をしたいと申し込み、1888年に共同生活が始まりました。
ゴッホは『ポール・ゴーギャン(赤いベレー帽の男)』という作品を残すほど、ゴーギャンに惹かれていました。
なんと代表作の『ひまわり』は、ゴーギャンを歓迎するために描いたものだそうです!
しかし、2人の価値観や芸術観は全く合わず、関係は次第に悪化し、わずか2ヶ月でゴーギャンは黄色い家を去りました。
驚愕の耳切事件とは
1888年12月にゴーギャンが去ってから1週間後、ゴッホは驚愕の事件を起こします。
ゴーギャンに馬鹿にされた自分の左耳をカミソリで切り落としたのです。
さらにゴッホは、切り落とした耳たぶの一部を、ラシェルという女に「この品を大事にとっておいてくれ」と言って、渡すという異常な行動もとりました。
その後ゴッホは病院に送られ、ゴーギャンと会うことはありませんでした。
精神病院で数々の作品を制作
耳切事件後のゴッホは、南仏プロヴァンスの小さな町サン・レミの精神病院に入院する事を決意します。
療養生活を送りながら、窓から見える村の風景など多くの作品を描きました。
その頃の代表作『星月夜』は、部屋の東向きの窓から見える日の出前の村の風景を描いたそうですが、実際にはない風景で、ゴッホが幻覚を見て描いたのではといわれています。
吸い込まれそうになる渦が巻いている表現がよく見られるようなったのは、この頃からです。
精神状態の悪化とゴッホの心の叫びを表しているといわれています。
ゴッホの死の真相は謎?
退院後、オヴェールの宿で過ごしていたゴッホは、1890年7月27日、麦畑で拳銃を胸に当て自殺を図ったとされています。
しかし銃弾の角度が自ら打ったにしては、不自然と言う指摘もあり、『他殺説』も疑われています。
銃で撃たれた後に宿まで何とか戻り、その2日後にゴッホは、テオに見守られながらこの世を去ったというのは、事実だそうです。
ゴッホの作品を広めた人物
ゴッホの死からわずか半年後に、弟のテオは33歳の若さで亡くなり、兄の作品の大成功を見届けることはありませんでした。
ゴッホの作品が世界的に知られるようになったのは、テオの妻ヨハンナのおかげです。
ヨハンナは、ゴッホとテオが交わした手紙を整理して、1914年に3冊の本として出版します。
この本は世界中で読まれ、1920年代頃までには、ゴッホ作品が国際的に知られるようになり、オランダのアムステルダムにゴッホ美術館が設立されました。
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